最近でこそ家庭には白熱灯が備えられて夜でも窓からは明かりがそこここから漏れています。ただ数十年前であれば、ロウソクの火をともしていたり、囲炉裏で鍋から湯気がでて、台所のかわりの土間ではご飯を薪で焚いていました。この数十年の科学の進歩は人から「火」を奪いました。
ただ、今であっても火は神として崇められています。日本のアイヌ民族では火はアプフチカムイ(あばあさんの火の神)とされていたり、沖縄ではピヌカンと呼ばれる神であったり、よろずの場所に神が宿る日本の神道ならではなのか、至るところに日本であっても火に関連する神様は多い。
火には魔法使いの様なウィザード的な神秘的な力を持つと信じられてきている。陰陽思想や不動明王信仰などとも結びついたりと、厄を「火」で追い払う力があると信仰されてきたのだ。(これもあって、「火は動物を退ける」イメージが独り歩きしているのかもしれない。)
この摩訶不思議な魅力のある火に手綱をつけるには、宗教的な力も必要とされていた為、町の最高年齢である長老などが神聖化されて重宝されてきたのだ。今との違いが大きい。火を操れる魅力は過去には大きく生活に根付いていたのだ。彼らは聖(ひじり)と呼ばれていたようで崇拝された。「日知り」が語源で、太陽の「日」を知り司る意としてだが、日と火の同一視から「火知り」=>「聖」となったらしい。
世界では「鍛冶屋」が火を使う職業として尊敬されていたというのだから面白い。今では日陰に追いやられてしまった。老人や鍛冶屋の人達が崇められる「火」のリバイバルはおきないものかと思う。老人をいたわる事はなくなってはいけない。
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